積み重ねなんス

面白いコメントがついてたので拾ってきました。

anond.hatelabo.jp

 

自己肯定感と自己評価の違いについて。

これに関しては、自分はかなり勘違いしていた部類だ。友人とこのあたりの話をしたことがあって、そこでそれなりの容姿、それなりの学歴を持った自分は社会の中でもそれなりに上の方だから自己肯定感は割と高い方だ、という主張をしたのだけど、それは自己評価に過ぎなかった、ということだ。なまじ客観的に見える根拠から断定しているあたりいやらしさもあるな。

ではこうして認識を改め、考えてみる。自分に自己肯定感はどれほどあるのか。「自分はこうである」とどれだけ受け入れているか。自信をもっているか。自分を認めているか。

……難しいな。今の自分の状態(心根とか?)に自信があるか、認めているかと聞かれたらおそらくYESと答えると思う。反面、このまま停滞したくはない、もっと成長したいと感じる自分も確かにいて、おそらく大半の人間がこんな感じなんだと思う。その2つがグラデーション的に存在していて、成長したいが濃くなると何かしら行動をはじめたりするのだろう。

でもこれは自分含めて環境が整ってる奴の物言いな気がする。もし自分が今の社会的評価や能力を全て失って丸腰で立った場合、同じことを言える自信は全くない。「それでも人生にイエスと言う」なんて無理無理無理。いかに自分の自己肯定感が環境に依存しているかが思い知らされる。

すると自己肯定感の正体は一体なんなのだろうか。自分に自信が持てる、認めてあげられる根拠。それは社会的評価に由来せず、自身の心身状態にも由来しない。そんなものあるか?

経験とか思い出、なのかな。多分。財布拾って交番に届けた、みたいな経験は社会的評価も伴うものだけど、「なんか自発的にできた良いこと」から得られる(俺偉いね感)や(なんかいい気持ち)が積み重なって強固な土台、つまり自己肯定感になっていくんじゃないか。どんな行動からもフィードバックがきて、それによって(俺偉いね感)や(なんかいい気持ち)が増えたり減ったりしていくのだろう。

だとすれば、結論はいつも同じで”やるしかない”に尽きるな。

そして今の自分でいいんだ、と100で認めることは自己肯定感を生むかもしれないけど、同時にそれは進歩を止めることな気がする。停滞は確かに楽だけど、生きてく以上は歩みを止めたくはない。だからまあ、何とか色々やっていきをやらなくちゃいけないのか。大変だ。